感想コメントまとめ

感想コメント

みせていただきました。ありがとうございました。いつも深く深く考えて感じておられるのだなあと、そんな感想しか言えないけれど、深いところで静かに感動しています。私ははやり特別支援学校の教員を長くしてきたので子供達が踊る様子をよくそばで感じてきました。人はなぜ祈りなぜ踊るのかを考えたことを思い出しました。ありがとうございました。

– 作家/元・石川県立明和養護学校(特別支援学校)教諭・山元 加津子さま


全てを肯定していく戸松さんの肉態に驚嘆すると共に、とても自由な気持ち、何かやってみたい、挑戦してみたい、遊びたいという人生に対して前向きな気持ちにさせていただきました! 映画もそうですが、何か一緒にワークショップなど開催できたらもの凄く心躍ります! それとは別に、普通に遊ばせていただきたいです! 戸松さんのワークなどもとても興味深く、私がやってる丹田呼吸もシェアしたり、ぜひ遊ばせていただけると幸いです^_^

– 映画『音の映画 Our Sounds』監督・ハブヒロシさま



実によく考えられた映画だった。
映画とは、作り手が問い(?)を立てて、その問い(?)作品内の時間を通して説明し、最終的には答えを提示していくクイズのようなものだと思うのだが、本作ではその答えが映されてはいない。しかし、問い(?)が明確であったので、非常に面白く鑑賞することができた。 そこが驚きであり、新鮮であった。 生き方における正解のない時代に生きている我々人間にとって、戸松美さんの云う「なぜ、表現を続けているのかわからない」と云う言葉は、そっくりそのまま、自分自身の人生に対する問いかけとなる。
「一隅を照らす」という言葉があるが、本作の主人公である戸松美貴博さんは、まさに一隅を照らす人だ。35年間も、自分自身でも動機すらわからない行為を継続し続けている。狂気を持った人だ。そんな戸松美さんの表現活動は、見ている限り、100%理解・共感することはできないが、並々ならぬ執念のような凄みは感じ取ることができる。肉態表現家という肩書きの名に恥じない堂々たる姿が映像として記録されている。こうした完全無欠のオリジナルの生き方を貫いている先人が、現実に存在していると云うことは、生きる上で希望になります。
「なぜ生きているのですか?」「なんのために生きているのですか?」と問われて、すんなりと「〇〇のために生きています」と言える人は、たいへん珍しいのではないだろうか。 多くの人が、「なんとなく、、、」という歯切れの悪い答えに落ち着くだろう。
僕は戸松美さんのバックボーンがもっともっと知りたかった。いちばんよかったシーンは、師匠である文化人類学者の⻄江雅之さんについて語っている自宅?でのシーンだった。そこの映像の質感と、語られる言葉が胸にきた。野生のカラスとの会話もとても面白かった。 戸松美さんが何年に生まれ、どういう両親のもとで育ち、どう云う教育を受けてきたのか。そしていつから今のひとり表現を開始したのか・・・そうした戸松美さんの人間の歴史がもっと見たかった。
3ヶ月の密着でここまでの映像素材を集めて、構成した手腕は非常に高く評価されるべきだと思う。 最後のシーンのラップの曲は普通にいい曲で何度も聞いてしまった。
本作は、人間とは何か?という根源的な問いかけが映画を通じて提示されたように思う。
哲学者のジャンポールサルトルの言葉を借りれば、「実存は本質に先立つ」 ハサミは、紙を切るという目的が先にあり生まれた。一方で人間は、目的や意味よりも前に、この世に生み出され、存在してしまっている。本来人間と人生には目的も意味もない。戸松美さんの表現活動もまさにサルトルのいう実存主義的な視点で語ることができる行為だと感じた。 「人間存在に意味などない」とすれば、人間は「自らの意志により自らを定義することができる」ということだ。戸松美さんは自らを肉態表現家と定義して、自分でもなぜしているのかわからない表現活動に自分自身の肉体を投企(プロジェ)する。自らを未来に向かって投げ込むというその姿はまさに戸松美さんの踊りそのものだ。
社会というものは、自分の自由意志よりも早く、そして強く、自分を定義してしまう。 自由意志によって自分の本質を作り上げていく上で、最大の障害は社会そのものであるということが本作を見ればよくわかる。人間は生まれながらにして、社会の眼差しによる葛藤を抱えることになる、という至極、根源的な問いかけを示していると感じた。 大事なのは、そうした他者の視線をはねのけてでも、確率したい自己の本質があるかどうか、ではないだろうか。そういうことを戸松美さんは伝えてくれていると思う。
人間の自由と希望、そして人生との向き合い方を問うた、ドキュメンタリー映画の良作だと思います。
※投企(とうき)とはマルティン・ハイデッガーによって提唱された哲学の概念。 被投という形で生を受けた人間は、常に自己の可能性に向かって存在している。 これが投企である。 人間というもののあり方というのは、自分の存在を発見、創造するということ。

– 映画プロデューサー/株式会社ポルトレ代表・石原 弘之さま


肉態問答、ほんっっと面白かったです!正直こんなに面白いと思ってなかったです。二人の即興ダンスからグーっと引き込まれました。辻村さんのレンズ越しに戸松さんの魅力を再発見した気持ちです。 何よりこんな散らかりきったクレイジーな情景を、一本の長編ドキュメンタリーにまとめあげる辻村さんのセンスと胆力!! 戸松さんやもう一人のダンサーさん、山下さんの即興性に、辻村さんのカメラの即興性が作用して、非日常的な即興空間が出来上がっていく様子がマザマザと見て取れました。 即興というのは本来ライブ性が重視されるものと思いますが、それをスクリーン越しに見たときに、単なる舞台やライブステージでは味わえない、独特で贅沢な即興性を堪能できたわけですね。こりゃ凄い!

– 映像監督/VJディレクター・株式会社roof・三好 啓介さま



即興。肉態表現。 この映画を通して私は即興という言葉の奥深さを発掘した。
戸松さんと即興セッションする岩下氏【舞踏家】と山下氏【ジャズピアニスト】。次の展開が読めぬ起承転結無き表現の数々。 そこには静寂と騒然が混在し意味も無く輪郭も無いまさに「即興」という奇跡だけが作品となる。
岩下氏は即興について「こうすれば」「こうあるべき」と考えるのでは無く自然と「こうなる」と語る。 同じく即興について山下氏は「どうなるかわからない」「どうなってもよい」と語る。
過去に私がなるほど!と思った言葉の中に「煩悩を無くそうとする事自体が煩悩である」 というものがある。即興とは「無我」なのか?意図や「こうしよう」というある種の煩悩を持った時点ですでに「即興」では無いのか? 瞑想中に無心になる事を意識した時点で無心ではなくなる様に。 否、または考える、考えてしまうという人間の本性を引っくるめて自然発生的無我なのか? 考えたり意図を持つ事も含めてそれが湧水の様に透明で本能的で純粋であればそれは無心でありそれは「即興」なのか? と映画中様々な問答を自分の中で繰り広げていた。それは楽しくとても心地良い問答であった。
私は作詞家であり作曲家のはしくれであるが、必ず作品は何度も書き直し意図や脈略を持って創作する。起承転結があり、ストーリーを想像し創りこむ。 だから「即興」という自然発生的に今、この瞬間に自分から生まれてくるものとあまり対話をしてこなかったのかもしれないと考えた。 今、この瞬間に私が叫ぶならばなんて叫ぶんだろう。どんな旋律でその言葉に音楽を吹き込むだろう。 その選択は無限であり奇跡である。考えて瞬時に選ぶ事も含めて自然発生的無我なのだと。 そこには「こうあるべき」では無く「こうなる」が存在し、同時に私なりの「即興」が存在する。
私がこの映画を鑑賞し終えて感じ、気付くに「即興」とは今この瞬間を全力で生きる事。意味や脈略は要らない。ありのまま身体を動かし。ありのまま叫び。ありのまま表現する事。 無我や無心を意識しなくても良い。ありのまま考え。ありのまま感じる事。 そしてその大切さを戸松さんは誰よりも知っておられ、肉態で表現されている。そして、映画に登場する精神疾患を抱える方達もその大切さを知っているのだ。 だからあんなに純粋で自由なのだ。 内なる自分の今一瞬を偽らずに有りのまま体現する。「即興」 その一瞬の連続こそが「生きる」という事なのかもしれない。

– 『cock roach』ボーカル・遠藤 仁平さま